小さな例外処理が生む、大きな濁りの話


とある現場で聞いた話

私が最近聞いた話である。それは、とある製造業の現場で起きていた出来事だという。
なおここで紹介する内容は、本質が伝わるよう一般化している。

その現場では、データは次のように管理されていたそうだ。

#1   A   2/5
#2   B   2/10
#3   C   2/15
#4   D   2/20

ある日、管理職から次のような依頼が出たという。

 「#2の日付を確定表示しない形にしたいので、表記は“2/”にしてほしい」
 「途中に“2/”があると見栄えが悪いから、最後の行へ移してほしい」

その場では小さな注文のように聞こえた。

しかし、その瞬間からズレが始まり、後から必ず負荷になる。

なぜ小さな例外処理が負担になるのか

表示上は“2/”に変更され、並び順も入れ替えられる。
しかし、データベース上には「2/10」が残り続ける。

すると、

 ・実際の値
 ・見せ方のために加工した値
 ・人手で変更した並び順

が静かに食い違っていく。

やがて、

 ・正しい順番で並べ替えられない
 ・他部署とのやりとりで齟齬が出る
 ・引き継ぎ時に背景説明が必要になる

こうした負荷が現場に積み上がる。

そして、なぜか担当者の責任として扱われやすい。
一方、「見栄えを提案した人は評価される構造」がある。

しかし、本来評価すべきは、例外の提案ではなく、例外を生まない設計のほうだ。

例外を提案し指示するほうが “仕事をした感” が強く見えるのだろう。
だが、構造的負債を抱え込むのは現場側である。

価値と負荷を正しく比較できているか

この種の例外処理を行う際には、本来次の軸で考える必要がある。

 ・時間
 ・コスト
 ・リスク
 ・保守性
 ・未来価値

これらに照らし合わせて判断すれば、実はそこまで価値のある修正とは限らない。

体裁のための例外が、未来の手戻りや負担に転化していくなら、それは短期的な満足感のために、長期的効率を犠牲にしたことになる。

本来の選択と、外側の選択が食い違うとき

人生にも、似た構造がある。

 ・本当は行きたい道があるのに、期待に合わせて軌道を変える
 ・本来不要な役割を、理由なく抱え込む
 ・本来の自分とは違う役を演じ続ける

これらは、人生における例外処理と言える。

しかし、あなたの潜在意識というデータベースには、“本来のデータ(想い・望み)”が残り続けている。

一時的に押し込めたとしても、後になって参照しようとすると、外側で積み重ねてきた履歴と整合性が取れなくなる。

言い換えると、

 「本来のデータ」
   vs
 「例外的に歩いてきた履歴」

そのバグが違和感となり、停滞感となり、焦りの形で現れる。

それはエラーではなく“本来の証拠”である

違和感は欠陥ではない。

むしろ、

  本来のデータがまだ失われていない

というしるしである。

それを再参照した瞬間に、人生は急にシンプルになることがある。

余計な例外が減り、

 ・時間が軽くなり
 ・判断が素直になり
 ・未来の選択が視界に現れる

これは仕事でも人生でも同じ構造だ。

あなたは今、どの “本来データ” を参照したいだろうか。

そのデータへの整合性を取り戻したとき、仕事も人生も、きっと軽くなる。

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